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福岡高等裁判所宮崎支部 昭和58年(ネ)122号 判決

控訴人

押領司敏

右訴訟代理人

新保昌道

被控訴人

橋口美智子

被控訴人

橋口一美

被控訴人

橋口信子

被控訴人

坂口千恵子

被控訴人

宮田正子

被控訴人

住吉涼子

右六名訴訟代理人

保澤末良

野間俊美

宮原和利

主文

一  原判決を取消す。

二  被控訴人らの請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は一、二審とも全部被控訴人らの負担とする。

事実

第一  当事者の求める裁判

一  控訴人

主文同旨の判決。

二  被控訴人ら

(一)  主たる請求(原審における請求をいう。以下同じ)について

「一 本件控訴を棄却する。二 控訴費用は控訴人の負担とする。」との判決。

(二)  当審追加の予備的請求について

次の判決及び第2項の仮執行宣言

1 控訴人は、被控訴人らに対し、原判決添付別紙物件目録記載(一)の土地(以下「本件土地」という。)につきなされた鹿児島地方法務局昭和五五年七月二二日受付第三四〇二号の、同目録記載(二)の建物(以下「本件建物」という)につきなされた同法務局同年同月同日受付第三四〇一号の各所有権移転登記のいずれも錯誤を原因とする抹消登記手続をせよ。

2 控訴人は、被控訴人らに対し、本件土地、建物を明渡すとともに昭和五五年七月二二日から明渡ずみまで一か月金三万五、〇〇〇円の割合による金員を支払え。

3 控訴費用は、控訴人の負担とする。

第二  当事者の主張、証拠

一  原判決の引用

当事者の主張、証拠の関係は、左記のほか原判決事実摘示のとおりであるから、これをここに引用する。

(一)  原判決事実摘示中「九州総合信用株式会社」とあるのをすべて「株式会社旭相互銀行」と訂正する(但し、原判決四枚目表一一行目の「九州総合信用株式会社」は「九州総合信用株式会社又は旭相互銀行」と訂正する)。

(二)  同三枚目裏七、八行目の「質権設定」を「質権の設定」と、同一〇、一一行目の「質権設定されており」を「質権の設定がされており」と、同一一行目の「生命保険」を「生命保険金」と訂正する。

二  控訴人の主張

(一)  主たる請求について

1 控訴人ははじめ被控訴人ら主張の請求原因4のうち、訴外亡橋口勇(以下「橋口勇」という)を被保険者とする被控訴人らの生命保険金請求権が橋口勇の株式会社旭相互銀行に対する貸金債務のために質権の設定がされていることを、原判決事実摘示第二の二4のとおり認めたが、これは真実に反し、かつ錯誤に基づくものであるから、その自白を撤回し、否認する。

2 なお、右橋口を被保険者とする生命保険は、同人に六二〇万円を貸付けた株式会社旭相互銀行城南支店(以下、旭相互銀行と略す)に対し右貸金債務の保証契約をした九州総合信用株式会社(以下、九総信と略す)が右貸金債権及び保証に基づく求償権担保のため、右橋口を被保険者、右九総信を保険契約者兼保険受取人、住友生命保険相互会社を保険者とする団体生命保険契約を締結したものである。

3 被控訴人ら主張の後示二(二)2、5の主張を争う。

なお、右橋口の貸金債務が九総信が受取つた右保険金から旭相互銀行に支払われて消滅したことにより被控訴人らは何らの損失を受けるものではない。即ち、右生命保険金につき被控訴人らが取得すべき権利は全くなく、被控訴人らには九総信が独自に締結した団体信用生命保険に基づく反射的利益があるに過ぎない。また、損失と利得との間に因果関係がない。

4 被控訴人ら主張の請求原因2(二)(1)の本件土地建物の売買代金の支払のためなされた被控訴人らが負担する旭相互銀行に対する住宅ローン債務の引受は被控訴人ら主張のように履行引受ではなく免責的債務引受又は併存的債務引受であり、橋口勇の旭相互銀行に対する抗弁権、即ち前示生命保険金により弁済充当されるべき権利を含む一切の抗弁権が控訴人に移転するのであつて、控訴人が右引受により負担した右橋口の債務が前示の生命保険金をもつて支払われ、消滅したとしても、それは前示債務引受契約の性質上当然の帰すうであり、そこに被控訴人らの錯誤や損失が入り込む余地がない。

5 予備的に昭和五八年九月一九日当審第一回本件口頭弁論期日において次の二つの反対債権をもつて、本件不当利得返還請求権の全部又は一部と対当額につき相殺の意思表示をする。

(1) 即ち、控訴人は被控訴人らが悪意又は重大な過失により旭相互銀行に問合せるなど前示生命保険とその質権設定の有無などにつき調査しなかつたため控訴人に不当利得返還義務を負担させ、同不当利得返還金相当の損害を与えた。よつて、控訴人は被控訴人らに対し不法行為に基づき本件不当利得返還請求額と同額の損害賠償債権を有する。

(2) 控訴人は本件土地、建物の売買契約後昭和五五年八月二七日から同五六年一一月二七日までの間住宅ローンの返還として被控訴人らのため合計一〇八万二、一七三円を旭相互銀行の橋口勇名義の普通預金口座に入金して支払つている。その結果、被控訴人らは法律上の原因なく不当に右同額の利得をし、控訴人は同額の損失を受けた。よつて、控訴人は被控訴人らに対し同額の不当利得返還請求権を有する。

(二)  予備的請求について

(答弁)

1 被控訴人ら主張の後示三(二)の予備請求原因1の事実を認める。

2 右同2(1)の事実を認め、同(2)の事実を争う。

3 右同3、5の事実を争う。

4 右同4のうち錯誤の事実を否認し、その余の事実を争う。

(抗弁)

5 仮りに右被控訴人らの主張4のとおりの錯誤があつたとしても、原判決事実摘示第二の三2項のとおり表意者たる被控訴人らに重大な過失があるから、自ら錯誤による無効の主張をすることができない。

また、錯誤による無効の主張は権利の濫用として許されない。

なお、右主張は時期に遅れた攻撃防禦方法である。

三  被控訴人らの主張

(一)  主たる請求について

1 控訴人主張の前示二(一)1の自白の撤回に異議がある。

2(1) 右同2、3の事実を争う。

(2) 仮りに被控訴人らに生命保険金請求権が存しないとしても、次のとおり被控訴人らは本件土地、建物の売買契約において売買代金の一部の支払につき旭相互銀行に対する被控訴人らの債務の履行を控訴人に引受けさせる方法をとつたのは、その債務自体の存在を前提とするものであり、これを控訴人に表示しているから、右債務が不存在であつた以上、右債務の履行引受による代金支払方法の合意は錯誤により無効である。

被控訴人らとしては右錯誤がなかつたなら、右履行引受の方法をとり債務相当額を売買代金から控除することなく代金全額を取得しえたものであるから、これにより右債務の履行引受相当額の損失を受けた。

右損失と控訴人が前示生命保険金により右履行引受をした債務額を免れた利得との間に因果関係がある。

3 控訴人の主張前示二(一)4の主張を否認する。

なお、免責的債務引受はそれに必要な債権者である旭相互銀行を含めた合意がなく成立しない。併存的債務引受も右債権者と債務引受人たる控訴人間の合意がなく不成立である。

4 右控訴人の主張5(1)(2)の事実を否認する。

5 控訴人には、昭和五六年一二月一八日の時点で旭相互銀行に対する住宅ローン貸金債務の残元本四六七万六、四八五円及び利息四万九、五八八円の計四七二万六、〇七三円が存在しており、これが橋口勇の生命保険金により支払われたことにより、控訴人が履行引受をしていた債務を免れ同額の不当な利得をし、かつ、旭相互銀行からその後控訴人が所持する橋口勇名義の普通預金通帳に入金して返還された既払分割弁済金の一部である五〇万六、八八六円も不当に利得しているものである。

したがつて、控訴人は合計五二三万二、九五九円の不当な利得をしているが、請求の趣旨記載の限度でその返還を請求する。

(二)  予備的請求について

(請求原因)

1 被控訴人らは、本件土地の共有持分六四五、八二七分の四、五二二及び本件建物の所有権を橋口勇から昭和五五年六月八日相続により取得した。被控訴人らの相続分は次のとおりである。

(1) 本件土地につき 被控訴人橋口美智子・九、六八七、四〇五分の二二、六一〇 その他の被控訴人各九、六八七、四〇五分の九、〇四四

(2) 本件建物につき被控訴人橋口美智子・一五分の五その他の被控訴人各一五分の二

2(1) 被控訴人らは、昭和五五年七月二一日本件土地、建物の全持分を控訴人に合計金六二〇万円で売り渡し、控訴人に対し、同月二二日所有権移転登記をなした。本件土地、建物は橋口勇が地産トーカン株式会社より購入したものであるが、右購入にあたり橋口勇は、旭相互銀行より金六二〇万円を、地産トーカン株式会社より金一一〇万円をそれぞれ借り受け、各一五年で弁済する約定であつた。

(2) そこで右売買代金の支払方法について、被控訴人らと控訴人の間で左のとおり特約がなされた。

売買代金六二〇万円のうち

① 旭相互銀行に対する被控訴人らのローン金五一二万九、九二八円の履行を引受け

② 地産トーカン株式会社に対する被控訴人らの債務金七二万三、〇七二円の履行を引受け

③ 金六二〇万円から売買契約日である昭和五五年七月二一日現在の①、②の合計額を控除した金三四万七、〇〇〇円を同契約と同時に支払う。

3 被控訴人らは、前記特約に基づき、昭和五五年七月二三日控訴人より金一〇九万五、九〇八円を受領したので、被控訴人らは内金七二万三、〇七二円を地産トーカン株式会社に弁済した。

4 被控訴人らと控訴人間の本件売買契約における右代金支払方法の特約を締結するにあたり、橋口勇を被保険者とする生命保険契約の有無が当事者間で問題になつたが、控訴人も右生命保険契約の不存在を前提として前示の特約を締結した。ところが、橋口勇を被保険者とする団体信用生命保険契約が九総信と住友生命保険相互会社との間に締結されており、右生命保険金により橋口勇死亡当時の残債務額が昭和五六年一二月一八日旭相互銀行に支払われ、同社に対する債務は橋口勇死亡当時に遡つて弁済された。被控訴人らは橋口勇を被保険者とする団体信用生命保険契約が締結され、右生命保険金により被控訴人らの旭相互銀行に対する債務が完済されることになつているのに、右債務が存在すると誤信していたので、前項のとおり代金支払方法の特約を締結することに合意した。したがつて、被控訴人らの右売買契約における意思表示はその重要な部分に錯誤があり、右売買契約は錯誤により無効である。

5 控訴人は、昭和五五年七月二二日本件土地、建物の引渡をうけ占有しているが、本件土地・建物の一か月の賃料相当額は金三万五、〇〇〇円である。

6 よつて、被控訴人らは、控訴人に対し、本件売買契約の錯誤による無効を原因として本件土地、建物の所有権移転登記の抹消登記手続及び控訴人の本件建物の引渡後の賃料相当損害金の支払いを求める。

(抗弁に対する答弁)

7 控訴人主張の前示二(二)5の抗弁を争う。

四 証拠〈省略〉

理由

第一当事者間に争いのない事実

被控訴人ら主張の主たる請求原因2(一)の事実、即ち、原判決事実摘示第二の一2(一)のとおり被控訴人らが控訴人に対し昭和五五年七月二一日本件土地、建物を代金計六二〇万円で売り渡し同月二二日その旨の所有権移転登記をしたこと、本件土地、建物は被控訴人らの先代橋口勇が地産トーカン株式会社から買受けたものであるが、同人は右買受にあたり旭相互銀行から金六二〇万円を、地産トーカン株式会社から金一一〇万円を借り受け各一五年で弁済する約定をした事実、及び前示本判決事実摘示第二の三(二)の予備的請求原因1、2(1)の事実は当事者間に争いがない。

第二主たる請求について

一事実の認定

〈証拠〉を総合すると、次の事実を認めることができる。

〔1〕昭和五〇年六月二八日被控訴人らの先代橋口勇は不動産売買、賃貸借及びその斡旋等を業とする株式会社ユーシンを設立(〈証拠〉)。

〔2〕同年一一月二六日橋口勇は東カン株式会社から同社所有のトーカングランドマンション第二トウカンF5一〇一五号室を次の〔3〕〔4〕のローン付で買受け妾宅として愛人宇都良子を住ませていた。

なお、右マンションは土地付マンションで、これが本件土地、建物(以下、本件土地、建物を一括して本件マンションということがある)であつて、右売買に基づき本件土地(共有持分権)につき同日受付で持分一部移転登記を、本件建物につき同日受付で所有権保存登記をそれぞれ了した(〈証拠〉)。

〔3〕同年八月二九日橋口勇は前示本件マンションを買受代金八八〇万円のうち一一〇万円を売主の地産トーカン株式会社から融資を受け、毎月約九、九八一円、但し、三月と九月は約四万円を一五年で手形により分割払することとし、同日の金銭準消費貸借の昭和五二年六月四日設定契約を原因として本件土地、建物につき根抵当権設定登記をし、これと併せて本件建物につき右準消費貸借の債務不履行を原因とする停止条件付賃借権設定仮登記を経由した(〈証拠〉)。

〔4〕橋口勇は右マンションの売買代金八八〇万円のうち六二〇万円を旭相互銀行から住宅ローンの融資を受けることにしこれより先の同年九月一日に東カン株式会社を通じ九総信との間で右銀行に対するローン債務につき保証契約を締結し、九総信の保証の下に同銀行に融資を申込み、九総信住宅ローン融資依頼書(兼保証内定通知書)に基づき前示売買契約をした同年一一月二六日に九総信に対し本件土地、建物につき同日付の金銭消費貸借の同日保証契約に基づく設定契約を原因として同日受付の抵当権設定登記を経由し、翌二七日旭相互銀行から六二〇万円の融資を受けた(〈証拠〉)。

なお、その際橋口勇は同銀行を通じ九総信に対し毎月返済分の当初保証料として五万八、六三二円、ボーナス返済分当初保証料二万八、四四〇円の計八万七、〇七二円の保証料を支払つている(〈証拠〉)。

〔5〕右住宅ローンにつき旭相互銀行に対する橋口勇の債務(以下、「ローン債務」という)の保証人となつた九総信は住友生命保険相互会社との間に橋口勇を被保険者とする次のとおりの団体信用生命保険(以下、信用生保と略すことがある)を締結した(乙第九号証の一ないし六)

(1)信用生保は賦払債務者がその債務の償還中に死亡し、あるいは所定の廃疾状態になつた場合に保険金を支払い、債権者の賦払債権回収を円滑にすることを目的とする特殊の団体保険である(信用生保約款前文、乙第九号証の四)。

(2)保険契約者 主たる債務者橋口勇の賦払償還に関し債権者旭相互銀行に対し保証債務を負つている保証人である九総信(約款一条)

(3)保険金受取人 九総信(保険契約者)(約款一七条一項)

(4)被保険者 橋口勇を含む旭相互銀行から賦払償還の債務を負担する主債務者の全部又は一部の集団で被保険者名簿に記載される被保険団体(約款一条、保険証券、乙第九号証の三、四)。

(5)保険料支払者 保険契約者たる九総信。

なお、保険料は平均保険料率により九総信が一括払込。被保険者は負担しない(乙第九号証の一、四、約款一〇〜一四条)。

(6)保険契約日 昭和五〇年二月一日以降毎月初日に一括保険契約を更新ないし新規締結する。

(7)保険金額イ被保険者ごとの保険金額は当該被保険者が保険契約者である九総信の提携金融機関(旭相互銀行)に対して負担している賦払債務残高と同額。

ロ保険事故発生により支払うべき保険金額は保険事故発生日現在の右イにより計算した金額とする(約款九条、信用生保契約に関する協定書二条、乙第九号証の四、五)。

(8)死亡保険請求手続

保険契約者は被保険者の死亡したことを知つた日から二か月以内に所定の書類を提出して保険金を請求する(約款一八条)。

(9)信用生保は九総信が独自に保険会社との間で契約するもので、被保険者たる橋口勇が行なうものではなく、また信用生保には質権の設定などはなされていない(乙第九号証の一)。

〔6〕前示〔1〕の株式会社ユーシンは橋口勇の個人会社で、本件マンションのローンの各月の支払は同会社が同人に肩替りして支払い、同人に対する貸付の形式をとつていたが、その回収をすることはなかつた(〈証拠〉)。

〔7〕昭和五五年六月八日橋口勇が消化管出血で死亡し、被控訴人らがこれを相続した(〈証拠〉)。

〔8〕右橋口勇死亡後、遺族から頼まれてそれまで経理を担当していた本村清一が株式会社ユーシンの代表者になり、会社の再建に帰つてきた従業員の中川國治と共に当時多額の負債を整理し、金利負担をなくして会社再建を図るべく、その処理手続を急いでいた(〈証拠〉)。

〔9〕株式会社ユーシンの右本村、中川の両名は本件マンションが前示〔6〕のとおり、前代表者橋口勇の個人名義の財産とはいつても、同会社においてローンや分割払の手形金を肩替りして支払つてきており、そもそもユーシンが同人の個人会社であり会社と個人との間で財産の混消ママすることが多かつたところから、橋口勇の死亡後、その遺族である被控訴人らの同意の下にユーシンがその代理人となり本件マンションを売却してユーシンのローンや分割手形金の支払債務を整理し会社自体がその支払債務から逃れて身軽にしたいと考え奔走し、昭和五五年六月二〇日頃不動産の仲介をしていた迫政幸、鹿児島地産の林某を通じ控訴人にその買受折衝を始めた(〈証拠〉)。

〔10〕ところで、右本村、中川の両名は、本件マンションを売りに出すに当り、ローン債務に橋口勇を被保険者兼保険契約者ないし保険金受取人とする生命保険金請求権の質権設定がなされていないか、もし保険に加入しているのなら保険証券がある筈だと考えて会社の金庫等を探したり、前示〔2〕の宇都良子に聞いたが見つからず、橋口勇の娘である被控訴人坂口千恵子に相談したところ、「父は保険が嫌いだから多分加入していないだろう」との返事だつたので、調査を打切りそれ以上旭相互銀行、九総信などに問合せをしなかつた(〈証拠〉)。

〔11〕一方、控訴人は本件マンションを買受けるに当り、前示〔9〕の仲介人迫又は林にローンの生命保険のことを尋ねたが、同人らがついていないというので、それでもよいし万一付保されていれば儲け物だと考えて買受けることにした。

しかし、本件マンションの売買契約の当事者である控訴人と被控訴人らの代理人である前示中川、本村との間で生命保険のことについて話し合つたことは全くなかつた(〈証拠〉)。

〔12〕昭和五五年七月一四日前後頃、控訴人は右中川、本村との間で本件マンションの売買契約の話がまとまり、右中川に手付金二〇万円を支払つた(〈証拠〉)。

〔13〕同年七月二一日控訴人は被控訴人ら代理人中川國治、本村清一との間で次の売買契約に基づき本件土地、建物を買受け所有権移転登記を了した(〈証拠〉)。

(1)売買代金 六二〇万円(但し、裏金一〇万円を追加して実額は六三〇万円)

(2)代金支払方法

イ旭相互銀行ローン残高五一〇万四、〇九二円(証書貸付ご返済予定表昭和55.7.30欄参照―当審調査嘱託に対する回答書添付書類)

右金額のローン債務の履行を控訴人が引受け、橋口勇名義の普通預金通帳(乙第一号証)(残高三八九円)の引渡を受け、同人名義で毎月所定のローン分割金を払込み支払う。

ロ差引現金取引額一一九万五、九〇八円

(620万円(売買代金)+10万円(裏金)−5,104,092円(ローン残高)=1,195,908円)(但し、領収書は裏金を除く一〇九万五、九〇八円―甲第五号証)。

〔14〕同月二三日地産トーカン株式会社の事務所で控訴人は右本村、中川に前示〔13〕(2)ロの現金支払額一一九万五、九〇八円から前示〔12〕の支払ずみの手付金二〇万円を差引き九九万五、九〇八円を支払つた。そして、右中川らは右金員から地産トーカン株式会社に対し同日前示〔3〕の手形金残額七二万三、〇七二円を自社ローンの一括弁済金として支払つた。

次いで、右トーカンへの支払後の残金二七万二、八三六円のうち売買手数料として一〇万円を支払い、残金を会社の運転資金として使用した(〈証拠〉)。

〔15〕同二三日弁済ないし条件不成就を原因として翌二四日前示〔3〕の抵当権設定登記ないし停止条件付賃借権設定仮登記の抹消登記をした(〈証拠〉)。

〔16〕控訴人は、昭和五五年八月二七日から昭和五六年一一月二七日までの間、毎三月、九月は各一六万九、三九九円を三回、その他の月は各月四万四、一五二円を一三回、計一六回に亘り合計一〇八万二、一七三円を旭相互銀行に対し前示〔13〕(2)イ記載の普通預金口座に払込みローン賦払金を支払つた(乙第一号証、前示証書貸付ご返済予定表)。

〔17〕昭和五六年一二月一日頃旭相互銀行及び九総信は橋口勇が前示〔7〕のとおり死亡していることを知り、これを前示〔5〕の約定に従い九総信が保険会社に通知して保険金として橋口勇の死亡時である昭和五五年六月八日現在の残元利金分として五二三万二、九五九円を受取り、昭和五六年一二月一二日にこれを旭相互銀行に入金し、保証人としての代位弁済をした(乙第七号証の一、第九号証の七、八旭相互銀行の当裁判所調査嘱託に対する昭和五九年一〇月二九日付回答書)。

〔18〕昭和五六年一二月一八日旭相互銀行は同日現在のローン債務残高元金四六七万六、四八五円と利息四万九、五八八円の合計四七二万六、〇七三円の弁済分として、前示〔17〕により九総信から入金された五二三万二、九五九円の内右同額をもつてこれに弁済充当し、残額五〇万六、八八六円は死亡後の前示〔16〕のローン賦払額のうち過払分としてこれを前示橋口勇名義の普通預金口座に入金して返還した(〈証拠〉)。

〔19〕昭和五七年二月三日九総信は前示〔4〕の当初保証料のうち未経過分の保証料として返戻保証料二万四、〇三一円(返戻率27.6%)を前示橋口勇名義の普通預金口座に入金して返戻した(〈証拠〉)。

以上の認定に反する原審における控訴人本人尋問の結果の一部は前掲各証拠に照らし遽かに措信できず、他に右認定を覆すに足る証拠がない。

二第一次請求の検討

被控訴人らは原審において、請求原因2(二)(1)の本件マンション売買代金のうち五一二万九、九二八円を旭相互銀行に対する被控訴人らのローン債務の履行を引受ける方法によることを約したのは、請求原因4のとおり、橋口勇を被保険者とする生命保険金請求権が旭相互銀行に対する債務のため質権の設定がされているのにその設定がないと誤信して前示売買代金の支払方法を定めたので、その特約の意思表示は重要な部分に錯誤があり、無効であるから、売買残代金五一〇万四、〇九二円につき被控訴人らの相続分に応じその支払を請求している。

しかしながら、右売買残代金の主たる請求は原判決により認められないとして排斥されているところ(原判決八枚目表)、被控訴人らは原判決の敗訴部分につき何ら控訴も附帯控訴もしていないから、民訴法三七七条一項に照らし主位的請求に対する右原審の判断の適否は控訴審の審理の対象とならない(なお、最判昭五四・三・一六民集三三巻二号二七〇頁参照)。なお、原判決は主位的請求棄却の主文を掲記していないがこれは単なる明白な誤記であると考えられる。

もつとも、原判決は右売買残代金請求と請求原因5の予備的請求である不当利得返還請求を選択的併合であると解したが、その両者を同一訴訟物とみて単なる請求を理由あらしめる事実の主張に過ぎないと解しているのかもしれないが、両者は実体法上異なる法条から導き出される別個の権利に基づく権利主張であつて別個の訴訟物であり、かつ売買残代金請求は前示ローン債務の履行引受による支払方法の特約が錯誤により無効であることを前提として本来の売買残代金の支払を求めるものであるのに対し、後者の不当利得返還請求はその錯誤無効が認められず右特約が有効であることを前提として不当利得金の返還を求めるものであるから、両者は論理的に両立しえない数個の請求であつて、その性質上予備的併合(順位的併合)のみが許され、これに選択的併合は認められない。

それのみならず、前認定〔5〕のとおり、本件ローン債務には橋口勇を被保険者とし九総信を保険契約者兼保険金受取人とする団体信用生命保険が付されているが、橋口勇ないし被控訴人らを保険金受取人とする生命保険が付されていないし、ましてこれに旭相互銀行や九総信が質権を設定しているものでないことが認められ、他にこの認定を覆すに足る証拠がないから後示のとおり自白の撤回が許容されるところ、本件全証拠によるも右質権の設定を認めるに足りない。

したがつて、前示のとおり右質権の設定があることを前提として、これをないと誤信したとして錯誤を主張する売買残代金請求はその余の判断をするまでもなく失当である。

三第二次請求の検討

原審における第二次請求である不当利得返還請求について、以下順次検討する。

(一)  自白の撤回

前認定一の〔5〕の事実に照らすと、橋口勇の旭相互銀行に対するローン債務支払のため付された生命保険は、控訴人がはじめ自白した被控訴人ら主張の請求原因4のように橋口勇を被保険者とする被控訴人らの生命保険請求権が同人の旭相互銀行に対する貸金債務のために質権が設定されているものではなく、九総信が前認定〔5〕のとおり自己が保証している右貸金債務につき債権者である旭相互銀行の債権回収の円滑をはかることを目的とする特殊な団体信用生命保険であつて、保険契約者兼保険金受取人九総信、被保険者橋口勇、保険者住友生命保険相互会社、保険金額、旭相互銀行に対する賦払債務残高、との内容を有するものであつたことが認められ、本件全証拠によるもこの認定を覆すに足る証拠がない。

したがつて、控訴人の右自白は真実に反することは明らかであり、かつ錯誤に基づくものと推認できるから、右自白の撤回を許すべきである。

そして、前示のとおり被控訴人ら主張の請求原因4のうち、右自白にかかる被控訴人らの生命保険請求権が存在すること、これが橋口勇の旭相互銀行に対する貸金債務のため質権が設定されていたとの事実は、本件全証拠によるもこれを認めるに足らない。

(二)  損失の有無

1 被控訴人らは請求原因5において被控訴人らが本来相続により取得するはずであつた生命保険金請求権に旭相互銀行又は九総信のために質権が設定されていたことによりその実行の結果右保険金請求権を失い、これにより控訴人は売買残代金五一〇万四、〇九二円を不当に利得し、被控訴人らは同額の損失を受けた趣旨の主張をしているが、前示(一)のとおり、そもそも橋口勇の旭相互銀行に対するローン債務につき同人を保険金受取人とする生命保険が付されている事実が認められず、したがつて被控訴人らが相続すべき生命保険請求権なるものも存在しないし、さらにこれが旭相互銀行又は九総信のために質権が設定されていたとか、その質権が実行されたという事実は本件全証拠によるもこれを認めるに足りないから、民法七〇三条所定の不当利得の成立要件である被控訴人らに「損失」を及ぼした事実を認めることができない。

2 そこで、被控訴人らは当審において前示本判決事実摘示第二の三被控訴人らの主張(一)2(2)のとおり、仮定的に被控訴人らに生命保険金請求権が存しないとしても、本件マンションの売買代金の一部の支払を旭相互銀行に対するローン債務の履行引受の方法をとつたのは、その債務自体の存在を前提とするものであるところ、その債務が不存在であつたから、右支払方法の合意は錯誤により無効であり、錯誤がなかつたなら、右履行引受額を売買代金から控訴することなく代金全額を取得しえたから、右引受相当額の損失を受けた旨を追加主張する。

しかしながら、前認定〔5〕〔17〕〔18〕の各事実及び前示一冒頭掲記の各証拠を総合すると、九総信が橋口勇の旭相互銀行に対するローン債務の保証をして、右債務の支払を確保する目的で九総信を保険契約者兼保険金受取人とする信用生保を付しているけれども、右の保険金は被保険者たる橋口勇の死亡と同時に支払われるのではなく、九総信がこれを知つて死亡通知をした後に支払われるものであり、債務者たる旭相互銀行としては右通知の遅速にかかわらず保証人たる九総信から受取保険金と同額の入金がない限り債務者橋口勇に対する主債務であるローン債務に消長を及ぼすべきいわれはなく、保証人から右入金があり代位弁済があつた時点のローン債務残高に右入金額を充当して精算するものとされているのであつて、右入金があるまでローン債務は存在することが認められ、これを覆すに足る証拠がない。

したがつて、前認定〔17〕のとおり旭相互銀行が九総信から入金を受けた昭和五六年一二月一二日より遙か以前の昭和五五年七月二一日に前認定〔13〕のとおり控訴人と被控訴人らの代理人中川國夫、本村清一との間でなされた売買契約ないし売買代金支払方法の特約締結当時ローン債務が存在していたことは明らかであり、右時点で既にローン債務が消滅し不存在であつたという被控訴人らの前示主張は失当であつてこれを認めることができない。

なお、それのみならず、被控訴人らは前示のとおり債務の履行引受の方法による売買代金支払の特約が錯誤により無効であることを前提として、右履行引受相当額の売買代金額を控除したことにより損失を受けた旨主張しているが、仮りに被控訴人ら主張のように右支払方法の特約が錯誤により無効であるとすれば、その特約は当初から効力がないものであり、支払方法の特約のない状態で売買代金全額につき控訴人に対しその支払を請求できるものというべきであるから、特段の事情のない限りとくに右無効な特約分を売買代金から控除しなければならない理由はないのであつて、この控除により同額の損失を受けたという被控訴人らの主張は前後矛盾し、その主張自体が失当である。

(三)  よつて、被控訴人ら主張の民法七〇三条所定の「損失」が認められないから、その余の判断をするまでもなく、被控訴人らの第二次請求である不当利得返還請求は失当である。

(四)  なお、本件において被控訴人らに、何らかの損失、例えば保証人たる九総信が橋口勇の生命保険金からローン債務を代位弁済したときに、被控訴人らに求償権を行使しない特約がなされており、このような求償を受けずに旭相互銀行に対するローン債務の免責を受け得たという得べかりし利益の喪失などが考えられなくもないが、被控訴人らにおいて右特約ないし逸失利益などの主張も立証もないし、たとえこの逸失利益が認められたとしても、これはもともと被控訴人らと控訴人間で前認定〔13〕のとおり本件マンションの売買契約に際しその売買代金の一部をローン残債務の履行引受により行なう旨約した昭和五五年七月二一日に発生したものというべきところ、この時点では前示(二)1のとおりローン残債務の約定額が現存したのであつて、このように履行引受人が双務契約の反対給付である売買代金などの支払に代えて債務を引受ける場合には、通常売買代金の支払計算を決済済みとしたもので、一種の更改ないし相殺的効力を有すると解すべきであるから(大判昭九・一二・一〇裁判例(八)民事二八六頁)、その後の債務の増減による利害得失は特段の事情がない限りすべて履行引受人たる控訴人に帰属するのであつて、控訴人が九総信の前認定〔17〕の昭和五六年一二月一二日にローン残債務を代位弁済したことにより、その求償を受けずに右弁済金相当の利得をしたとしても、前示昭和五五年七月二一日に発生した被控訴人らの損失が右利得により直接生じたものであること、即ち、右利得と損失との間に民法七〇三条所定の直接の因果関係を認めることができない。

それのみならず、そもそも本件マンションは前認定〔2〕〔6〕のとおり橋口勇が株式会社ユーシンの出捐のもとに妾宅として買入れているものであつて、実質的、経済的には同会社のものであるというべく、またそれであるからこそ前認定〔9〕のとおり被控訴人らも本件マンションの処分を同会社に一任したものといわねばならないから、被控訴人らが本件マンション処分によつて失うべき実質的な損失は当初から存在したものということはできない。

第三予備的請求について

一前示予備的請求原因1、2(1)の事実は前示のとおり当事者間に争いがなく、2(2)、3の事実は前認定〔12〕ないし〔15〕の事実を考え併せると、これを認めることができ、他にこの認定を動かすに足る証拠がない。

二しかしながら、予備的請求原因4において被控訴人らが主張する本件マンションの売買契約が錯誤により無効であるとの事実は次のとおりこれを認めることができない。

即ち、被控訴人らは予備的請求原因4において前示信用生保に基づく生命保険金により橋口勇死亡当時の残債務額が昭和五六年一二月一八日旭相互銀行に支払われ、同社に対する債務は橋口勇死亡当時に遡つて弁済された。このように遡及的に債務が完済されることになつているのに債務が存在すると誤信して、その債務の履行引受という売買代金支払方法の特約をしたもので、本件マンション売買契約はその意思表示の重要な部分に錯誤があり、売買契約全体が無効である旨主張している。

このうち、昭和五六年一二月一二日に前示信用生保の生命保険金として支払われた橋口勇死亡時の残元利金債務相当額である五二三万二、九五九円が九総信から旭相互銀行に入金され代位弁済されたことは前認定〔17〕の事実に照らし明らかであるが、これが被控訴人ら主張のように右死亡時に遡つてローン債務を消滅させるものであり、したがつてもともと売買契約及び売買代金支払方法特約締結当時既にローン債務が存在しなかつたとの事実は前示第二の三(二)2において説示したところに照らし、これが認められないものであり、右売買契約及び代金支払方法特約締結当時なおローン債務は存在し前示入金があるまでこれが存続するものであることが明らかであるから、被控訴人らの売買契約が錯誤により無効であるとの主張はその前提において採用できない。

三また、仮りに被控訴人ら主張のように被控訴人らがローン債務に信用生保の付保がないものと誤信し、その点に錯誤があつたとしても、それは売買契約の要素ではなく、単なる縁由ないし動機にあたるに過ぎないものというべきところ、前認定〔11〕の事実に照らし、右信用生保がないという縁由ないし動機を本件マンション売買契約の当事者間で表示され、これが法律行為の内容になつていたとの事実が認められないことが明らかであり、本件全証拠によるもこれを認めるに足りない。

四さらに、たとえ右の信用生保の付保につき錯誤を認めるとしても、前認定〔10〕に照らし被控訴人ら及びその代理人である前示本村、中川には本件マンションの売買契約をなすに当りローン債務の債権者である旭相互銀行や保証人である九総信に信用生保の付保の有無を問合もしなかつた点に表意者として重大な過失があることが明らかであるから、被控訴人らは自ら錯誤による無効を主張することができない。したがつて、この点の控訴人主張の抗弁は理由がある。

五よつて、右のいずれの点からみても被控訴人らの当審で追加した予備的請求はその理由がなく失当である。

第四結論

以上のとおりであるから、被控訴人らの本訴請求はいずれもその理由がないことが明らかである。

よつて、被控訴人らの不当利得返還請求を認容した原判決は失当であるからこれを取消し、かつ、原判決の欠落した売買残代金請求棄却の主文の付加更正を含めて、被控訴人らの請求をいずれも棄却することとし、訴訟費用の負担につき、民訴法九六条、八九条を適用して主文のとおり判決する。

(吉川義春 甲斐誠 玉田勝也)

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